
CHANEL History
1883
8月19日、フランス中南部オーベルニュ地方ソミュールで、ガブリエル・シャネル生まれる。
1910
パリ・カンボン通り21番地にて
帽子店オープン。
1914
フランス北西部ノルマンディ地方ドーヴィルで洋服のブティックをオープン。
1916
フランス南西部アキテーヌ地方ビアリッツに本格的なクチュールのブティックをオープン。
パリ・カンボン通りの帽子店もクチュールの店に切り替える。
ジャージーを取り入れた服を
次々と発表。最初のデザインが
米・『ハーパーズバザー』誌に
「魅力的なシュミーズドレス」
として掲載される。
1921
カンボン通り31番地にブティックを拡張。最初の香水、「シャネル No.5」発表。
1922
香水「シャネル No.22」発表。続いて
「ガーディニア」(1925)、
「ポワ デ ジル」(1926)、
「キュイール ドゥ リュシー」(1927)、
「シコモール」「ユンニデ」(1930)、
「ジャスミン」(1932)を発表。
1924
シャネルの香水を扱う、パルファン・シャネル社を創立。社長に就任。
1926
リトルブラックドレス発表。
1928
ツイードスーツを発表。最初のスーツには、シャネルのために特別にスコットランドで織り上げられたツイードが使用される。
1929
パリ・カンボン通り本店に
アクセサリー部門を置く。
1930
ハリウッドのプロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンの依頼で、スターの衣装製作を引き受ける。
1931
映画『今宵こそは』の出演女優グロリア・スワンソンの衣装を手がける。シャネルにとって衣装デザインを手がけた最初の映画。
1934
コスチューム・ジュエリー専門
のアトリエを作り、コスチューム・ジュエリーコレクションを展開。
1935
シャネルの黄金時代。従業員は4,000人に成長。年に2万8000点もの作品を世界中に発売。
1939
第二次世界大戦始まる。カンボン通りの5店のうち、大成功を遂げていた31番地の香水とアクセサリーのブティック1店を除き、閉店。クチュール部門を閉める。
1945
第二次世界大戦が終了。
シャネル、スイスへ移住。
1950
マリリン・モンロー、「夜寝るときはシャネルの『No.5』」の名言を残す。
1954
クチュール界にカムバックを果たす。カンボン通り31番地にクチュールのメゾンを再びオープン。
1955
アメリカ・ダラスにて「20世紀の最も偉大なクリエーター」として、モード・オスカー賞を授与される。
男性用オードトワレ
「プール ムッシュ」発表。
1959
ニューヨーク近代美術館に「シャネル No.5」の香水瓶が展示される。
1970
香水「シャネルNo.19」発表。
1971
1月10日、住まいを構えていたパリ・オテルリッツでシャネル死去。享年87歳。スイス・ローザンヌの墓地に埋葬。
1月26日、シャネル追悼コレクション。
大成功を収める。
1974
オードトワレ「クリスタル」発表。
1975
ビューティシリーズ(スキンケア製品、
メイクアップ製品)発表。
1978
プレタポルテライン「シャネル ブティック」を発表。アクセサリーの販売を拡大する。世界中にブティックをオープン。
1981
男性用オードトワレの2作目にあたる、
「アンテウス」発表。
1983
カール・ラガーフェルド、シャネルのコレクションを担当する主任デザイナーに就任。パリ・モンテーニュ大通り42番地に、2番目のシャネル ブティックをオープン。
1984
香水「ココ」発表。
1986
香水「No.5 オードパルファム」を発表。
1987
シャネル女性用腕時計
「ル タン シャネル」発表。
モンテーニュ大通りに最初の
ウォッチブティックオープン。
1988
アメリカ・ファッションデザイナー委員会(CFDA)」より、シャネルおよびカール・ラガーフェルドに「インターナショナル・ファッション賞特別 賞」授与。
1989
マルセイユ装飾芸術博物館のモードと衣装部門オープンを記念して、「シャネル特別 大展覧会」を開催。
1990
男性用オードトワレ「エゴイスト」発表。
女性用腕時計「マドモアゼル」発表。
ヴァンドーム広場に、
ウォッチブティックをオープン。
1993
ジュエリーコレクション発表。
男性用オードトワレ
「エゴイスト プラチナム」発表。
1994
女性用腕時計「マトラッセ」発表。
1996
ココ・シャネルへの敬意を表して、パリ・オテルリッツのサロンにて、'96年春夏オートクチュール・コレクションを発表。
香水「アリュール」発表。
1999
男性用オードトワレ
「アリュール オム」を発表。
全世界でニューコンセプトのブティックを
展開。建築はピーター・マリノ。
2002
オードトワレ「ココ マドモワゼル」発表。
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CHANEL
1883年、フランスのオーベルニュ地方のソミュールに生まれる。12歳の時に母を亡くし、少女時代から、姉妹とともにオバジーヌの修道院の孤児院で育ち、後にパリ南方のムーランの修道院で20歳頃までを過ごす。1901年に仕立屋、1903年に下着屋で働き始めるが、ムーランの街にやってくる軍人たちと踊りに行くことが多く、陸軍士官のエティエンヌ・バルサンの愛人となる。この頃、歌手に憧れミュージック・ホールの歌い手となる。愛称の「ココ」は、当時のレパートリー「キ・カ・ヴィ・ココ」に由来している。
1909年、当時被っていた自作の帽子が評判となり、バルサンの援助のもと、マルゼルブ大通り160番地で帽子のアトリエをオープン。ここは、裕福な人の住む独身男性用アパルトメントで、バルサンが自分の借りていた部屋を、彼女を援助するために提供したものだった。顧客が増えてきたため、翌10年末からは、帽子のブティックをカンボン通り21番地に移転。ここで婦人帽子店「シャネル・モード」として正式に認可を受けた。後にこの帽子店は、当時の愛人兼パトロンのアーサー・カペル(イギリス)の出資で買い取ることとなり、シャネルはカペルに対し、13年に返済を終えている。帽子店では、婦人服のデザインも始め、帽子用の素材だったジャージーでドレスを作ったのがきっかけとなり、14年に帽子店をメゾン「シャネル」としてリニューアルオープン。この年、高級リゾート地、ドーヴィルのゴントー・ビロン通りにもメゾンを開く。なお、ドーヴィルについては、アーサー・カペルの勧めがあったといわれる。
1916年には、スペイン国境付近のリゾート地ビアリッツに、本格的なクチュール一本の店をオープン。また、パリのカンボン通りの店をクチュールに転換し、本格的にクチュール界へ進出。この年、ベンチャー企業として数百人の従業員を抱えるに至り、それまでの銀行融資を全て返済している点は、驚愕に値する。この時期のシャネルの試みでは、それまで労働着・下着だったセーターを日常着として取り入れたり、下着素材のジャージーや男子服のラフさに着目したりした点が特徴的。胴の長い、スカートの短かい男っぽい服(ギャルソンヌ・ルック)は、あまりにも有名だ。16年には、ジャージーのシュミーズドレスが、『ハーパース・バザー』誌に取り上げられた。20年、カンボン通り31番地へ店舗を拡張。20年代前後のシャネルは、私生活や恋愛も多彩をきわめ、イゴール・ストラヴィンスキー、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、セルゲイ・ディアギレフ、ピエール・ルヴェルディなどの芸術家たちと親しい関係を結び、とかく伝説的な話題が多い。
この頃、黒とベージュを基調にして、シックで、実用性と機能性を備えたシンプルなチューブ・ラインのドレスを次々と発表。例えば、ジャージーのテーラード・スーツ、カーディガン・スーツ、シュミーズ・ドレスなど。なお、第1次世界大戦期に、真っ先にミリタリー・ルックを取り入れたのは、他ならぬシャネルである。これらの作品を通じて、シャネルは、第1次大戦後の新しい女性像を明確にとらえた、シンプルで機能的なスタイルをアピール。マスキュリン感覚をもって、20年代のモード界をリードした。当時のシャネルの作風は、かなり論理的なもので、それまで単に飾りに過ぎなかったボタンやポケットに、現実的な役割を与えた。また、シンプルで短いチューブ・ドレスの飾りとして作られた模造宝石の装身具「ビジュ・ファンテジ」は有名。他にも、ふくらはぎ丈のパンタロン、「シャネル・ルック」とよはれるカーディガン・スーツ、ベルベティーンのジャケット、くるぶし丈のイブニング・ドレス、金属ボタンや大型フレームのサングラス、つま先で切り替えたベージュ×黒の底寸パンプス(シャネル・パンプス)、鎖と革のストラップで知られるキルティング・バッグ(シャネル・バッグ)など、100種類を超えるシャネル・スタイルは、今でも受け継がれている。今日、シャネルの典型とされるスタイルの原型が、既にこの時期に形成されていたのである。
20年、南フランスのグラスで、調香師エルネスト・ボーと出会う。21年には、かの有名な香水「シャネル No.5」と、「シャネル No.22」の販売をスタートし、成功している。この香水は、80種類もの成分を優秀な科学者が混合した、全く新しい人工の香りとして人気を博す。24年には、ピエール・ヴェルタイマーの提言を受け、「シャネル香水会社」を設立。以後、毎年、香水の新ブランドを続々と発表。1950年のマリリン・モンローの発言「寝るときに身に纏うのは、シャネルの5番が5滴だけ」はあまりにも有名。
1934年、アクセサリー部門の工場、翌35年には、パリの北方ピカルディー地方に自社製品用の服地工場を建設。この頃、シャネルのメゾンは、従業員4000人を数えたという。その間、ロシア・バレエの舞台衣装をはじめ、アヴァンギャルドな舞台衣装、ハリウッド映画の衣装などを手がけた。シャネルの躍進は、30年代の留まるところを知らなかったが、第2次世界大戦が勃発し、39年に、香水とアクセサリー部門を除き、メゾンを閉鎖。コモ湖畔で引退生活を送った。
しかし、54年2月に、70歳でカムバック。当時、流行の最先端を進んでいたクリスチャン・ディオールの、復古的で、着せ替え人形タイプの「ニュールック」に対し、55年、シャネルは、機能的なツイード・スーツをぶつけた。このスーツは、上着とスカートのツー・ピース。スカートは膝丈で、デスクワークのどんな立ち居振る舞いにも適した。丸い襟元のシンプルな上着の下に白のブラウスがさりげなく豪華さを演出していた。肩からヒップまで直線的に下りるラインを際だたせた、このツイード・スーツ(通称「シャネル・スーツ」)は、当初フランスでは不評だったが、女性のエグゼクティブの台頭がめざましかったアメリカで人気が爆発。アメリカに遅れること10年、女性の高学歴化が60年代に進んだフランスでは、70年代に入って、ようやくシャネル・スーツが有名になる。以後、ディオールのニュールックにもまして、このシャネル・スーツは世界的な大流行となった。
このとき、シャネル・スーツは、20年代のシャネルが編み出した基本的なラインを維持しながらも、ツイードがジャージーにとって代わり、色調が明るく、一層、若々しいルックになっていた。なお、ツイードのスーツの原型は28年。また、ツイード自体は、元ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、31年から34年にかけてシャネル工場の技術部長を務めている間に開発したものである。71年1月、コレクションの準備期間中、ホテル・リッツの一室で急死。没後もメゾンは継続し、74年、アトリエのチーフだった、ジャン・キャゾボンとイヴォンヌ・デュデルがグリフを継いで製作にあたった。シャネルは、グレと同様、生涯プレタポルテ部門をもたなかったが、77年にシャネル香水会社が、スティリストのフィリップ・ギブルジェを招き、プレタポルテ部門と専用ブティックをオープンした。こちらは、同年秋から展示が始められた。
83年、ドイツ人デザイナー、カール・ラガーフェルドが芸術顧問、オートクチュール・コレクションの責任者として赴任。ラガーフェルドの着任とともに、シャネル・ブームが世界的に再燃した。89年春夏のコレクションでは、ピアリッツのココ・シャネルを思わせるような、若々しい避暑地のファッションを発表している。また、同83年、モンテーニュ大通りにブティックを開店した。当店では、パッケージや時計のデザインはジャック・エリュー、調香師はジャック・ポルジュ、美容部門はドミニク・モンクルトワと、エディ・モラヴェワが担当。
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デザイナー

カール・ラガーフェルド(Karl LAGERFELD)。
1938年、ドイツのハンブルグに生まれる。
1952年に14歳でパリに移住。
1954年、16歳の時に IWS(国際羊毛事務局)のコンクールで優勝。
バルマン、ジャン・パトゥ等のオートクチュールで仕事をした後、
1963年に独立しプレタポルテに進出。同年、クロエ社と契約。
65年にフェンディのデザイナーに抜擢。83年、シャネルのデザイナーに就任。
84年に自身のブランド"カール・ラガーフェルド"をスタート。
86年には"デ・ドール賞"を受賞。ストリート・ファッションをエレガントに表現するという、
独特のクリエイティブな世界を創り出す。
シームなしの袖付け、軽く丈夫なヘム・ライン、すっきりとしたレイヤード等、
斬新な手法を多数世に送り出す。写真家としても高名。
2003年、スタインウェイ社の創立150周年記念限定ピアノ、
「カール・ラガーフェルド」モデルのデザインを手がけた。
150台限定のピアノで、1台1,100万円である。
男性のスーツの機能性に注目しそれを女性向けにシンプルに作りかえたといわれる、
襟ぐりやすそをブレード(ひも)で縁取りしたスーツは、他のブランドでも"シャネルスーツ"と呼ばれるほど有名。そういった従来のテイストや本質的なスタイルは変えず、
より現代的なリアリティーを追求している。 |
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